10.【あ】  『圧巻(あっかん)』 (2000/01/17)
『圧巻』
1.他を圧倒するほど優れた詩文。
2. 書物や催し物で、一番優れた部分・箇所。 例:「ラストシーンが圧巻だった」
故事:昔、中国で官吏の登用試験(科挙)の際、最も優れた答案(巻)を、全部の答案の一番上に置いたことから出た言葉。
類:●傑作●出色
出典:「文章弁体−弁詩」「山谷嘗云、老杜贈韋左丞詩、前輩録為圧巻」
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>五六:なに? 源五郎?
>源:おうよ。
>五六:するってえと、あんたがあの大工の源さんかい?
>源:いや、人違いだろう。棟梁の源蔵は別人だ。
>ごろ2:人違いなら構わんでしょう? やっちまいやしょうよ。

>五六:待て。俺が聞いたことのある話は違うんだ。大工の棟梁じゃねえ。年の頃は、三十半ばぐらいになってる筈だ。大柄じゃねえがいかつい体型。顔付きは怒ったときの
雷電為右衛門みたいだって聞いたことがある。間違いねえ、あんただ。
>源:知らねえな。
>八:雷電て、力が抜きん出て強えんで、張り手をしちゃいけねえって、あの雷電のことかい?
>熊:顔は見たことねえけど、親方みてえな恐い顔してたのかねえ。
>ごろ2:それで、その源さんてのは何をした人なんすか?
>五六:まあ座れ。・・・姉(ねえ)さん済まないが、湯飲みを呉れねえか、割っちまった分はちゃんと勘定に付けといて呉れ。

ごろつき3人組は元の席に落ち着き、渇(かわ)いた喉を潤(うるお)すまで大人しくしていた。
周りの客も興味が湧いてきたらしく、あやが五六蔵に湯飲みを運ぶ様子を、待ち切れない思いで、見守っていた。
五六蔵は話を頭の中で組み立てながら、大根を四つに切り分け、一口頬張り、酒をぐいっと呷(あお)った。
亭主とあや、八と熊も話が始まるのを待ち構えていた。
源五郎だけが、一人、仏頂面(ぶっちょうづら)をしていた。

>五六:布屋の久七さんから聞いた話で直接見た訳じゃねえんだがな、それはもう10年も前ぇのことだ。・・・老中の定信(さだのぶ)様が改革をしてからこっち、火付けとか盗賊が毎日のように起こってた。木場の山城屋っていう材木問屋が付け火されたのを知ってるだろう。あの頃の一番でかい火事だ。
>八:ああ知ってる知ってる。その頃おいらは見習いの見習いで、まだ鋸(のこ)も持たせて貰えなかった。
>熊:それで、なにかい? 親方が、ゐ組の長五郎より先に纏(まとい)を振ったとでも言うのかい?
>半:木場界隈なら「ゐ組」じゃなくて深川の「南組(みなみぐみ)」の持ち場だろう。
>松:そんなのどうでもいいだろう。続き、続き。
>五六:纏(まとい)を振ったとか、逃げ遅れを助け出したとかじゃあねえんだ。その後のことだ。
>熊:その後っていうと?
>五六:山城屋から少し離れたところに、衣笠屋という大店(おおだな)があってな、そこに賊が入りやがったんだ。野次馬たちもそうだが、火盗改めの目も山城屋に向いてて、そんなときに盗っ人が押し込むなんて思ってもいなかった。
>八:でもよ、衣笠屋に泥棒が入ったなんて話、聞いたことがねえぞ。
>五六:盗みが成功しなかったからに決まってんじゃねえか。その話をしようってんだよ。

>熊:そこに源五郎親方が、颯爽(さっそう)と、登場するのか?
>五六:いんや、まだだ。どこにでも巡り合わせの良いやつは居るもんで、長谷川という火盗改めの親分が4、5人の手下を連れて衣笠屋の近くに居合わせた。晴れて御用となる筈だったんだが、盗賊が思いの外(ほか)大所帯(おおじょたい)だった。4人は捕まえたんだが、残りの8人が女中衆を盾に篭城(ろうじょう)を決め込んじまったんだ。応援の者も野次馬も集まり始めたんだが、お役目柄、人質があっちゃあ手も出せねえ。長谷川さんもほとほと困っていたところに現れたのが、そこに居なさる大工の源さんだ。なんでそこにいたのか、なんで独りで衣笠屋に入っていったのか、騒動の後どこへ消えちまったのか、まったく分からなかった。野次馬の1人が「半被(はっぴ)に大工・源五郎って書いてあった」と言ったんで名前は分かったんだが、どこに住んでどこで働いているかまでは分からなかったってんだ。

>八:それで? どういう風に女中衆を助けて、どういう風に泥棒たちをやっつけたんだい?
>五六:布屋の久七さんは、路地の障子窓から覗(のぞ)いてたらしいんだが、源さんはこう言ったそうだ。「女子供を盾にして自分らを守ろうなんてえのは人の道じゃあねえ。弱い者は守ってやるもんだろう」。
>八:格好良い。
>熊:盗賊はみんな刃物を持ってたんだろう?
>五六:そうよ、当たり前ぇよ。源さんは素手だった。だがな、それからが凄(すさ)まじかったそうだ。
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【蛇足】
人物:雷電為右衛門(らいでんためえもん) 江戸後期の力士。1767〜1825。信濃国(長野県)の人。本名関太郎吉。寛政7年(1795)、西大関となり、文化8年(1811)に引退するまで、優勝25回、254勝10敗21分けの記録を残した。あまりに強かったので、張り手・閂(かんぬき)・鉄砲の3手を禁じ手にされたという逸話がある。 上に戻る